陸羽と『茶経』
 

  陸羽(783〜804年)、字は、鴻漸、疾という名前も使った。字は季疵、号は竟陵子、東岡子といい、唐代の復州、竟陵(現在の湖北省天門)の人である。一生お茶を好み、茶道に精通し、世界で最初の茶の葉についての著作『茶経』を著したことで世に知られ、中国の茶業と世界の茶業に優れた貢献をし、「茶聖」「茶仙」「茶神」として祭られる。
  詩文を専攻したが、世に残されたものは多くなく、伝奇的な一生を送った。もともとは孤児であったが三才の時、竟陵の竜蓋寺の住持、智積禅師に西湖のほとりで拾われ、陸羽という名をつけてもらった。竜蓋寺で読み書きを身につけ、お茶を入れることも覚えた。それでも陸羽は出家したいとは思わず、十二才の時に竜蓋寺から逃れて芝居の一座に入って芝居を習うようになった。それほど風采のある顔立ちでもなくちょっとどもることもあったが、ユーモラスで機転がきくということで、道化役者として成功した。その後、三巻の諧謔本『謔談』を書き残した。唐の天宝五年(746年)、竟陵太守の李斉物は州の人たちの集会の際、陸羽のずば抜けた演技を目にして其の才能と抱負を大いに気に入り、その場で詩の本を贈ったり、火門山に隠とんしている鄒夫子のところへ勉強に行くよう推薦したりした。その後、よく友だちの崔国輔と旅に出、お茶と水の賞味と評価をし、詩について語り合い、文章を論じ合った。唐の粛宗の乾元年(758年)に陸羽は升州(今の南京)に来てお茶について研究することになった。唐の上元年(760年)に山中に隠とんして『茶経』を著した。陸羽の一生は高官で権勢のある人を蔑み、金銭を重く見ず、自然を愛し、正義を堅持した。『全唐詩』に収録された陸羽の一首の詩からその人柄を窺い知ることができる。積もり積もった黄金も羨むことなく、白玉の杯も羨むことなく、朝省に入ることも羨むことなく、暮れ台に登ることを羨むことなく、西江の水が竟陵城にきたことを千回も一万回も羨む人であったのだ。陸羽の『茶経』は唐代と唐代以前の茶に関する科学知識と実践経験を系統的にまとめたものである。この本が世に出ると、すぐその時代とその後の歴代の人々に大切に保存され、茶業へのその貢献は大いにたたえられた。宋代の陳師道は『茶経』のために書いた序の中に「茶について本を著すのは羽から始まる。茶が世に使われるのも羽から始まる。羽は誠に茶の功労者だ!」という句がある。陸羽が世を去ってから、人々が「茶神」と尊ぶようになったのは晩唐からのことである。

 

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